日本を代表する岩石日本庭園 仙石庭園が令和の御世に誕生

仙石庭園は、医療法人社団ヤマナ会の創始者で、医師であり造園家でもある山名征三氏により創建された。何故、今江戸時代の大名さんのような庭園を造るのか。しかもこんな辺鄙な土地に。ここを訪れた多くの人が驚きと同時にいろいろな思いを込めて感じる素朴な疑問だろう。特別な理由はない。1990年、バブルが弾け、田舎で自前の庭を創っていた私に面白いように大量の安価な石が入手できる道が開かれたからである。もともと庭園作りは好きで、仙石庭園の企画、設計、石組を含む施行もほとんど私一人の考えでやってきた。図面はない。初めからこの広い土地があったわけではなく、逐次入手できた土地に私の心の赴くままに石を据えてきたにすぎない。私の心の中で譲れないことは、我が国に多数ある従前の庭園スタイルとは違ったものにしようということであった。造園業者の意見をあえて聞かなかったのは、私の想い描く空間を作りたかったからだ。造園というのは感性の世界である。人の評価を気にして自分で納得できなければ何の価値もない。

本格的な築庭はもちろん、石に関しても全くの素人の私が貴重な素材を使って造園するに当たっては、当然試行錯誤の連続であった。しかも、従前のものと異なる庭園となると殊更である。日常業務の合間を見つけては現場に行き、空間を眺めては考え、考えては眺め、時にはどういう選択をするべきか方向性を見失うこともしばしばであった。なぜならば、一旦据えられた巨石はその位置に永遠に居座り、訴え続けるからである。しかし、その難しさが私を前へ前へと向かわせてくれたとも言える。岩自体、強烈な個性と力を秘めている。その一個の石を正しく据えるだけでなく、三石、五石の組石を何か所も短時間でやらなければならないのが組石作業だ。一旦据えれば簡単に変えられないのも組石の難しさだ。また、そこにはその素材にふさわしい品格、芸術性も求められる。そうして初めて訪れる人々に感銘と驚きを与える空間となると考えている。誰に教えられたわけでもなく、私は三段階を踏むようになった。まず広い空間を俯瞰し、心の中にイメージを作る。その際重要なことは、その場の周辺部と借景である。第二段階として手持ちの素材を墨書し、それらを現場に運び込みあらかたの配置をする。そのまま数週間ワイヤーを付けたまま放置し、幾度となく眺め、与えられた素材の良さを活かせるようイメージを絞り込み、一気呵成に組石を仕上げていった。

2011年夏に、やっと入手した土地に本庭園の目玉である仙石半島富士の造成にかかった。富士山はなぜ美しいのか。古来その稜線の美しさ、裾野の伸びやかさにあると言われている。私はその再現を試み、制約のある土地で、可能な限りのものが出来たと自負している。麓には富士五湖にちなんで、仙石湖に豊かな水を貯え、石を出来る限り少なくして、広がりを楽しめる空間とした。

2013年近隣の方より、100本近い伸びやかな紅葉をいただく機会に恵まれ、上段の庭に紅葉園の原型を作った。同じ頃、市当局に長年申請を出して保留にされていた農業用倉庫の建築許可が下りた。1年間農家になり、作物を納付した結果である。早速神石殿の造営にかかった。遡ること5年(2012年)、岡山県新見市近くの1000年の歴史を誇る日尾山八幡神社の御神木6本を伐採するという話が私に持ち込まれた。ただちにチームを組み、石庭に関わった猛者連の助けを得て、無事切り出し、生皮を丁寧に剥ぎ、巨木ゆえ、製材には徳島の業者にお願いし、巨大な丸太、柱、3cm厚の杉板を作り、保管していた。これらを用いて平成の御代には珍しい、総杉造りの巨木神石殿が完成した。

建物ができて間もなく、仙石庭園最奥の山が入手できた。私は以前よりこの斜面に滝を作れば庭園の完成度が上がるとの思いを抱き続けていた。我が国には色石の間を流れ落ちる滝はない。早速四国西条を中心に石を集め、約200トンを運ばせ、私の手持ちの石を合わせ350トン~400トンの石を使って、高さ15mの虹の大滝が完成した。

入口の総杉造り、神石殿とその前庭、仙石富士と仙石湖、銘石通りに配置された天下一品の銘石の数々、各種の組石など多彩な構成要素にて庭園は9,000坪(3ha)の広さとなり、ほぼ完成の域に達した。2019年頃のことである。

しかし、築庭当初から庭園北側に約3,000坪(1ha)の湿地田があり、50年以上放置されていた。以前から庭園の一部にとの思いがあったところ、偶然持ち主から使用許可をいただいた。手持ちの石はまだ大量にあり、ここに岩石湖を作り、周辺に展開するバーベキュー、キャンプ場と一体化できる運動広場を作ることを決めた。

2020年初頭より工事に入り、難工事が予想されたので、造園師・中村正満氏、石職人・藤井弘氏、レッカーの名手・上田勇氏に図面を渡し、私自身は毎日現場で思いを伝えることでスタートした。工事を始めると予想以上の泥沼で、大型ユンボが埋没しかねない状況であった。まず、内部に重機が移動できる道路を作る必要があり、大量の砂利を投入しつつ汚泥を除去し、一方では巨大な穴を掘り、そこに汚泥を流し込むという作業を繰り返した。この作業だけで2~3ヶ月の日時を要した。北側からは十数か所の水脈が田に流れ込んでいることも判明し、それらを1つずつパイプで集め、大池の予定地まで誘導することで水処理を行った。

池を掘り、両面の護岸として中央に巨大な亀石を置く小山も同時に築いた。その間、手持ちの巨石を土場から現地に持ち込み、本格的な護岸工事にかかった時は9月を過ぎていた。護岸工事は順調に進み、高さ1.2~1.5m、1日10~15mのスピード感をもって築岸していった。5~20トンの巨石を巧みに組み裏面をコンクリートで固め、頑健な護岸ができた。その間、私は何度も四国へ足を運び、足摺岬辺りのウバメガシの巨木を取り寄せ、持ち帰り、北の高台を中心に亀島内へと次々と移植していった。5~6人が毎日懸命に動き、図面通り庭園が形を成した時は1年を過ぎていた。3月の芝張り前に、従前の庭園との間に涼道を作るべく、大量に入手していた羅漢石、砂谷石の石置きも一気呵成に終えた。予定通り芝も張り、細部の調整を進め、1haの庭園を1年余りで完成させた。

2022年度は地鶏の鶏舎作り、周辺のアウトドア関連、キャンプ場、フットサル場に関わり、ほぼ将来に向けてのスタートラインを形作った。あとは次の世代の者が時間をかけて完成させることを願うのみである。

2020年12月、我国初にしてオンリーワンの庭石登録博物館に文化庁より認定。2022年1月、文化遺産として将来への命脈を保つべく公益財団法人化を進め、総務省より認定を受けた。2023年、仙石庭園のことをNorth American Japanese Garden Association(NAJGA)の知るところとなり、庭園の紹介をしてもらいたいということで2023年5月15日、シアトルにて学会に参加。アメリカにおける周知活動も行った。

私は20年に亘って仙石庭園を自分で企画、設計、施工もしてきたが、振り返ってみると実に多くの人々の献身的サポートをいただいた。この20年間、何人の人が関わったか。主な人々の名前を列記してその労に報いたい。造成に関わった飯田政治君、他営繕の職員に加え、広く石に関する情報提供を行ってくれた藤井弘氏、巨木を用いた神石殿を見事に仕上げた平田栄二君、伊予の青石の窓口としてお世話になった能勢秀幸氏、仙神大滝を組上げた中村正満氏。終始、正確なレッカー操作で協力いただいた上田勇氏に感謝の意を表したい。

最後に、歴史に残る庭園を造るという私のとてつもない行動を、20年間以上に亘って文句も言わず支えてくれた妻・順子に、心より感謝したい。

庭園には、今一つ目玉がある。タイムカプセルである。50年、100年、500年先に開ける予定である。50年先のタイムカプセルには、地元小学生が50年先の自分に宛てた手紙を入れている。100年先のカプセルには、今の世相が分かる新聞、雑誌を中心に詰める予定にしている。500年先のカプセルは、目下検討中である。

2023年6月
苑主 山名征三